【CLOUD】テキスト(3/3)
2つめは、「FF Versus XIII」について書いたものです。これも「FF XIII」同様の企画で、いくつかの文章が掲載されています。
野村哲也さんのタイトルについて書くというのは、僕にとってはかなり特別なことです。あいていに言えば「緊張する」ということなのですが、それとはちょっと違う気もします。ゲームでも映画でも音楽でも美術でも、なんでもいいんですが、それについて書くことはできます。難しいか簡単かということは、実はないんですね。書けるか書けないかと言われれば、書ける。書けないものはない。ただ、極まれに、対象について客観的に書きにくいものが存在します。
ゲームで言えば、野村哲也さんのタイトル(と、その映像を含む)がそれに当たります。書きにくいということでもなく、ただ、客観的には書けないということなのです。だから僕はいつも、野村哲也さんのタイトルについて書く時は自分のことを書いてしまいます。そういう前提というかな、条件というかな、それがないと書き続けることができないのです。
これは不思議な感覚です。小学校の時、国語の時間にはじめて作文をして以来、書くことに困ったり戸惑ったりした試しのない人間ですし、野村哲也さんのタイトルについて書くのも楽しいんですよ、誤解しないでください。でも、何か違うんですよねぇ……とか言いながら「自分の文章はこれです!」なんてやってしまうくらい、その文章は好きだったりもするんです。
ん~、うまく説明できていませんね。不思議だ。
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子どものころから不思議に思っていることがある。「見える」とはどういうことなのだろう。身体器官を通して目に見えている風景とは別に、脳裏にいくつものスクリーンを思い浮かべることができる。そのスクリーンに映る映像は、見えているのか、それとも見えていないのか……。
「Versus XIII」の映像に、僕はいつも圧倒されている。あまりにも速く、力強く、そのすべてとして美しい映像に触れる時、僕の目も、そして脳裏のスクリーンすべても、それだけを全速力で捉えようとしている。一種のカメラワークが、頭の中にあり、その動きと速度に僕は快感を覚える。また、そのビジュアル、ただひとつを追う時、人は言葉を失うのだということにも気づかされた。
今現在、僕は「Versus XIII」を語る言葉を持っていない。「Versus XIII」は僕にとってそれだけ個人的なビジュアル体験なのだ。これが最終的にはゲームになると想像しただけで……。ただ、これだけは間違いないと確信している。「Versus XIII」がCellチップを必要としたのではなく、Cellチップが「Versus XIII」を、野村哲也氏と彼のチームを求めているのだ。彼らがそれを、選んだに過ぎない。