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※この文章は2006年7月7日に公表されたものです。
【PERSONA3 往復メール・第1回(20060621・0625)】
この夏大注目の
RPG「PERSONA3」は、7月13日発売です! というわけで、今日から4回にわたって(土日のアップはありませんので、7月12日水曜まで)、ディレクターの橋野さんと僕の往復メールを公開していきます(1回1往復ずつ公開していきます)。サンプルROMをプレイさせていただいた僕が感じたことを、わりと乱暴に? そのまま橋野さんに投げさせていただいて、お答えをいただいている感じです。
電撃PlayStation等でスタッフインタビューは読めると思うのですが、それとはちょっと違ったレアな感じをお楽しみにいただければと思います。
ではでは、さっそくどうぞ!
■第1往復 倉西→橋野さん
【件名】
いつまでも、終わらなければいいのに。
【本文】
お世話になっております、
電撃PlayStationの倉西です。
まずは「PERSONA3」マスターアップ、おめでとうございます。遅ればせながら。攻略チームからサンプルROMをとりあげて、遊ばせてもらっています。プレゼンいただいた時の印象通りの独特の世界観が楽しいです。なんでしょう、あんまりストーリーが進んでほしくない最序盤から、そんなことを思ってしまうくらいです。いつまでも、終わらなければいいのに。
まだ最序盤ですが、この世界観について、ちょっと書かせていただきます。もともと「
女神転生」というシリーズは属性ということを強く意識した
RPGでした。当時の
ゲームデザイン論、ハード技術のレベル等々の関係があったかとは思うのですが、この「属性」は決定された後にゲーム(ユーザーのプレイ)に影響を与えるものでした。ただ、今回の「P3」もそうですし、そういえば「DDS」もそうだったなぁと思うのですが、橋野さんが最近のタイトルで表現していることって、「一種、属性のようなもの」が決定されるまでの刹那のような、でも、それなりに長さのある時間を表現されようとしているのかなぁと、ぼんやり思うのですが、どうでしょう?
いわゆる「
ピーターパンシンドローム」といいますか、モラトリアムを描くエンタテインメントって多いですよね。たぶん橋野さんと僕が共通で好きな
楳図かずおさんのコミックとか、そうですよね。「PERSONA」というシリーズもそれを描いてきたとも思いますが、今回はそれがゲームシステムにも反映されていて、ちょっと鳥肌が立ちました。ざっくりと書かせていただければ「影時間」はモラトリアムそのものですが、「P3」のシステムがすごいのはそのモラトリアム中にプレイするタルタロスは、いつまでプレイしていてもいいということです。本筋のストーリーを進めることなく、ずっとモラトリアムを楽しんでいられる。でも、本筋というか、何事かの本質はそれで変わるのだろうかノノ。さらにゲームっぽくざっくりと書かせてもらうと、潜りたいだけ潜っていられるダンジョンということになるわけですが、このシステムとしての潔さは、なんだろう、それが象徴する意味あいとして画期的だと思うのですが、いかがでしょうか?
なんかズレてます? 僕w すいません、まだ最序盤なもので。
属性のこととか、話題を振っておきながらスルーしていく方向で最初のメールは、こんな感じで。本当はもっともっと書きたいのですが、今はまだプレイする段階かなぁと。
唐突に、最初のメールを終わります。
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倉西誠一 Seiichi Kuranishi
■ 株式会社
メディアワークス
●
電撃PlayStation編集部
×
http://www.dengekionline.com
(2006年06月21日13時17分)
■第1往復 橋野さん→倉西
【件名】
是非、まったりと進めてもらえれば
【本文】
お世話になっています。アトラスの橋野です。
早速ですが、頂いたメール、拝見させて頂きました。ひとまずは、楽しんで頂いているようで、なによりです(今作、プレイ時間、内容ともやりごたえがあるので、どうか、急がず、まったりと進めてもらえばノと思います)。発売前ということもあって、ゲーム内容には、深くは触れられないだろうなぁと思っていたんですが、いきなり深い部分、突いてこられた なぁと。どう、お返ししようか、戸惑いつつも、ご質問に関連した幾つかのことを書きたいと思います。(答えになるのかどうか、全く自信がありませんが)。
いきなりで、なんですが、よく耳にする表現で「ゲームらしいゲーム」っていうのがあります(これ、変な言葉ですよね)。僕は「ゲームらしさ」というのは、ある意味で、勝敗を決める前提で作られているかどうかだと思っています。つい先日、ワールド
カップでの日本の戦いが終わりましたが、例えば、スポーツの試合一般のことを「ゲーム」と呼ぶように、白黒がはっきりと結果として出る前提のものですよね。例えそれが、ひどく残念な結果であったとしても、将来判定される優劣を受け入れる事を覚悟するからこそ、大いに感情が昂ぶる(=面白いと思える)ものなんだろうなと思います。
昔のようにシステムが単純だった頃は、クリア出来たかどうかが勝敗ラインだったように思いますが、表面的に、対戦などの要素の無い一人用のものでも、白黒というのは、それぞれのシステムによって様々に判定出来るものだと思います。辿り着く結果を複数用意し、その結果判断自体をプレイヤに問いかけることも出来ます。
これまでのシリーズが様々な形で扱ってきた属性という概念は、一言で言うならば、プレイヤへの問いかけであり、ゲームとしての遊びの根幹、すなわち、ゲームそのものだと言っていいでしょう。
これは、本質的にペルソナ3でも同じです。
プレイヤ自身が、物語を進めることで、判断すべき結果を得る為には、そこには最低限のリアリティの存在が必要です。ペルソナは、そういう意味で、現代劇という形をとっています(そして、日常というリアリティと対比しておかれた世界が、影時間、タルタロスということになります)。将来、起こるべき結果の白黒を、先延ばしにしながら過す時間が、青春なのだとしたら、ゲームと言うのは、そういった心理の上でしか、その面白さを味わえないのかもしれませんね。
ひとまず、ここで止めておきます(お聞きになりたかったことに、少しでも答えられているのか、書いているうちに不安になってきましたので)。
この先、話題がどういう方向に行くのか、まるで予想が付きませんが、今回、ペルソナ3を振り返る、いい機会をもらえたなノと感謝もしております。プレイの中で気づかれた点など、もしあれば、また、是非、お聞かせください。
今後とも宜しくお願いします。
2006年6月25日
株式会社アトラス
チーフディレクター 橋野桂